写真は衣川の圓成寺さんの客殿に掲げられている書です。圓成寺さんでは昨日から明日まで報恩講が勤められていて、今日出勤させてもらった時に撮らせていただきました。
そして今日は息子二人が通う保育園の運動会でもありました。実は毎年圓成寺さんの報恩講と運動会は重なるのです。だから毎年この日は坊守と子らを保育園に送り届けた足で圓成寺さんに寄せていただくのですが、一昨年、この道中で夫婦で大口論になってしまいました。
恥ずかしながらその時のエピソードを去年の寺報に法話として載せさせて頂きました。今日この書を見てそれを思い出したので、(やっぱり恥ずかしいのですが)ここに再掲します。良かったらお読みください。
煩悩にまなこさへられて 摂取の光明みざれども 大悲ものうきことなくて つねにわが身をてらすなり
これは今般の音楽法要でもお勤めするご和讃です。正信偈の「煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我」の部分と同じ内容です。「摂取の光明」とは阿弥陀如来の救いの光、「大悲」とは阿弥陀如来の無限のお慈悲、「ものうきことなくて」とは「倦(あき)るこななく」ということです。通して言えば「私達は自らの煩悩に遮られて阿弥陀如来のお救いの光を見ることはできない。それでも如来は大きなお慈悲の心で、一時も絶えることなく私のことを照らしてくださっている」という意味です。
ところで親鸞聖人は阿弥陀如来のお心を「大悲」と仰ぐ一方、自らを「小慈小悲もなき身」と省みられています。慈悲とは平たく言えば自分以外の誰かの幸せを願う心のこと。だから聖人がこんな風に言うのを聞くと謙遜されてるのかな、と思ってしまいます。でもこれは表面的な謙遜などではありません。もっと深いお心から出たお言葉です。
ちょうど一年ほど前、我が子の保育園の運動会でのことです。その日は私は組内寺院の報恩講、坊守は仏婦の境内清掃で二人とも運動会に参加できないため、坊守のお母さんに来てもらい、代役をお願いしていました。 ところが当日、事情を聞いた仏婦の皆さんの計らいで、急遽坊守は運動会に行けることに。慌てたのは私です。お参りの時間が迫る中、坊守を車で保育園へ送ることになったからです。気が焦り、いつもよりきつい口調で坊守を急かし、当時0歳の下の子と荷物を車に載せて保育園まで車を走らせました。
保育園まで来ると坊守は一旦駐車場に車を入れるように言います。でも焦る私はそれを無視し、車を路上で停めて坊守に急いで降りるように指示しました。一方的な私の態度に流石に坊守も頭に来ているようでしたが、私の強い口調に気圧される格好でしぶしぶ助手席を降りました。そして彼女がドアを締めたその瞬間…なんと私は車を発進させてしまったのです。下の子や荷物がまだ車に載ったままであることもすっかり忘れて!
幸いミラーに走って追いかけてくる坊守の姿が見えて、車を停めることができましたが、当然坊守は怒り心頭、大声で私を罵っています。私の方も逆ギレ状態で「時間がないのに無理をいうからこうなるんだ!」と言い返します。保育園の先生や保護者さんの面前ということも憚らず、その時は坊守が許せない一心で喚き散らしていました。
その場をあとにして、目的地のお寺に到着しても、私はまだ怒り続けていました。そんな状態で客殿に上がらせてもらい、座布団に座って、ふと顔を上げると、眼前の壁に額に入れられた書がかかっていました。そこには「大悲無倦」とありました。「あ」っと小さく唸りました。そしてようやく、数十分前の自分の非を悟りました。
皆さんにどう見られているかは分かりませんが、私は普段から良い夫、良い父であろうと心がけています。家事も手伝いますし子供の相手もよくしているつもりです。そして何より家族の幸せを心から願っているつもりです。そう、その意味では「小慈小悲」くらいは持ち合わせている気でいました。
ところが、です。時間が迫っているというだけで、坊守にさっさと車を降りろと鬼の形相で怒鳴り、我が子のことも忘れ車を発進させる。それが私の本性でした。なるほど聖人の仰る通り、「小慈小悲もなき身」だなと思い至り、恥ずかしく、情けない気持ちになりました。
けれども同時に、嬉しい心持ちにもなりました。私がその時自身の非に気付くことができたのは、他でもない阿弥陀如来の「ものうきことなき」大悲が私に至り届いたからだといただけたからです。 私は自分の都合だけで怒ったり、偽物の慈悲で優しくしたり、毎日身勝手に生きています。でも私がどこで何をしていようと、阿弥陀如来はずっと途切れることなく私を照らし続けてくださっている。だからこそ、身勝手な私がふとしたタイミングでそのお光に気づかせていただくことができた。そう思えたのです。
報恩講のあと、坊守と子らを保育園に迎えに行きました。開口一番「ごめん」と謝りました。すると坊守は「私も言い過ぎた」と言ってくれました。阿弥陀如来のお慈悲の中、今日も私たちはなんとか夫婦として、家族として過ごさせていただいています。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
壽命寺寺報「無量寿」第14号(2015年10月)より転載