お念仏の記憶。報恩講の準備に想う

img_2063いよいよ報恩講が目前に迫りました。それに向けて先週末22日(土)、朝から婦人会の皆さんを中心に境内・本堂の清掃や仏具のお磨きなどが行われました。住職や坊守の気づかないところ、手が届かないところまですっかり綺麗ににしていただき、本当にありがとうございました。これで安心して報恩講を迎えられます。
…と言いたいところですが、住職にはまだ大事な仕事が残っていました。お内陣のお荘厳です。午後、婦人会の皆さんの帰った後の静かな本堂で一人、作業に勤しみました。
ご本尊や親鸞聖人・蓮如上人の御影の埃を叩きで払い、それらをご安置する空殿・須弥壇・脇壇・厨子、上卓・前卓などを順番に磨いていきます。そしてその上卓・前卓に水引・打敷をかけてから、皆さんが磨いてくださった仏具を置いていきます。
テキパキとやればそれほど時間がかかる仕事ではないのかもしれません。でも一年で一番大切な報恩講、少しでもお内陣(=阿弥陀如来のお浄土)が清らかに光り輝いて見えるようにと心を凝らして作業をしていると、あっという間に時間が過ぎていきます。ようやく作業に一区切り着いた頃にはすっかり夜になってしまっていました。
こんな風に書くと、準備の大変さをアピールして皆さんからの労いを求めているように思えるかもしれませんが、そうではありません。この時間は私にとって「至福の時」なのです。
静まりかえった本堂で一人上卓を磨いていると、漆塗りの面が鏡になってそこに御本尊が映ります。まるで阿弥陀さまが私ひとりの為にお出ましくださったようで、何とも言えない、満ち足りた気持ちになります。そして丁寧にお荘厳を整えていくと、段々とお内陣が輝いて見えてきて、ああ、早くこのお内陣をご門徒の皆さんにも見ていただきたい、そして一緒にお念仏がしたいと心が踊るのです。
また、仏具や内敷の裏側に、それが寄進された年月と施主さんの名前が書かれているのを見つけることも大きな慶びです。例えば上の写真は打敷の裏書きで、昭和27年3月とありますから今から64年前に寄進されたものです。でもこれなどはまだ新しい方で、もっと古い、100年前、150年前の仏具もあります。
仏具は現役でも、寄進者に名を連ねる方はもうこの世には残っておられません。でも確かにその方々がこのお寺に集い、今の私達と同じようにお念仏されていたということが、古い仏具から偲ばれます。そしてそのお姿を思い浮かべると、理屈抜きのお念仏が口から溢れるのです。
お浄土の世界は目には見えませんから、私一人でその存在を確かめることはできません。でもそれに手を合わせ頭を垂れる人の姿を通してそれを感じ取ることができます。言い換えれば阿弥陀如来のご本願は阿弥陀如来から直接私に届けられるのではなく、それを尊んだ人々を通して私に至ったものだということです。そのことに思い至ると、ここに名を連ねている方々や、同じ時代のご門徒とお念仏を通して一筋に繋がっていることが感じられ、心が震えるのです。そしてまた、口からお念仏が溢れ出てくるのです。
一人お内陣の荘厳に勤しんでいると、そうした「お念仏の記憶」が、お寺のそこかしこに染み込んでいることに気付かされ、これこそがお寺の財産だと思い知らされます。そして、そんなお寺の住職をさせていただいていることに大きな慶びを感じさせられます。故にこの時間は私にとって「至福の時」なのです。
でも、そのことを独り占めにしては住職失格です。そのお寺の財産を一人でも多くの人と、深く共有するように務めてこそ住職なのでしょう。そういう想いをもって、この週末の報恩講をしっかりとお勤めしたいと思います。「お念仏の記憶」に触れに、是非ともお誘い合わせの上、お参りいただければと思います。
日程等、詳細は下記よりご確認ください。
平成28年度「親鸞聖人報恩講」のご案内
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合掌