もう半月以上経ってしまいましたが…。10月29日、30日に今年の寿命寺報恩講が勤まりました。
二日間、たくさんのお参りをいただき、本当にありがとうございました。
今年は奈良、吉野から和氣秀剛師をご講師にお迎えしました。
ご法話のテーマは親鸞聖人のご生涯を伝える「御絵伝」でしたが、先生のお話は単に絵の解説にとどまるものではありませんでした。
親鸞聖人の出家から(絵では雲に隠れている)比叡山でのご修行、そして法然聖人とお出会いになるまでのシーンを通して、聖人が何を求められたかを掘り下げてお示しくださいました。そしてその聖人の生き様が今の私にどう関わるのかということについて、ご自身の体験も交えて深く優しくお話くださいました。
特に聖人9歳のお得度の場面で「このお得度がなければ、今、こうしてお堂に集っている私達の姿もなかったはず」とのお話には深く頷かされました。
二日目の朝、婦人会のある方が「昨日はとてもいいお話を聴かせてもらいました。でも今日はお斎の準備の担当なので聴けなくて残念です」と仰っていました。婦人会の皆さんには申し訳なく思いつつ、そんな風に「もっと聞きたい」と感じさせてくださるご講師をお招きできたことが、とてもうれしかったです。
二日間の法要が終わり、総代さんとご講師控室にお礼のご挨拶に伺った際、ご講師より「報恩講らしい報恩講でしたね」とのお言葉をかけて頂きました。住職になって六度目の報恩講。お荘厳や法要の作法について、実家のお寺や近隣のお寺のやり方を見よう見まねでやってきました。でも実は毎回これで正しい形にできているのだろうかと不安に感じながら勤めてきました。それだけにこの「報恩講らしい報恩講」というお言葉は、最高の褒め言葉と頂きました。
でもこのお言葉は内陣のお荘厳や法要作法のことだけを言われたのではないはずです。報恩講の「講」は集まりという意味。つまりお参りの皆さんのことです。だから「報恩講らしい報恩講」とは、集う人々の心が、 阿弥陀如来や親鸞聖人をはじめ、私にお念仏のみ教えを届けてくださった無数のご縁への報恩の想いで一つになっていたということだと言えます。実際、お勤めの時に背中越しに聞こえる皆さんのお声や、ご法話をお聞きの皆さんの横顔から例年以上の熱気を感じていました。半月経った今でも、実に濃密な二日間だったなと思い返されます。
願わくばこの報恩の想いを、日々の暮らしの中にも継続できればと思います(もちろん私自身も含めて)。その一つの表れが各ご家庭での報恩講です。是非各ご家庭のお仏壇でも報恩講をお勤めしましょう。何をどうすれば分からないという方は、遠慮なくお寺までお問い合せください。
最後になりましたが、 役員、世話役ご夫婦、婦人会のみなさまはじめ、大勢のご門徒に準備から当日の運営、後片付けまでお世話になりました。おかげさまで「報恩講らしい報恩講」が勤まりました。本当に有難うございました。
南無阿弥陀仏。