還ってくる仏さま

ついこの間、新年の挨拶をしていたと思っていたのに、気づけば2月ももう終わり。時の流れの早さに足がすくむ思いがします。
去年は寿命寺のご門徒のお葬式は一件もありませんでした。でも今年はこの二ヶ月足らずで既に三件もお勤めさせていただきました。時候の厳しさも相俟って世の無常を思わずにはおれません。そしてそれはいつも大切な問いを私に投げかけてきます。亡くなった方はどうなったのか。私は何のために生きているのか。そして、私はどうなるのか。
浄土真宗では、お念仏を頂かれた方がこの世の命を終えたら、阿弥陀如来のはたらきによってお浄土に往き、そこで悟りを恵まれて仏さまになると説かれます。そしてさらにその仏さまはすぐにこの娑婆に還って来られて、残された私たちに寄り添い、見守り、仏の道に導いてくださると親鸞聖人は仰います。
この世の命を終えられた方は、仏さまとなってまた還ってくる。
浄土真宗に馴染みのない方がここだけ聞くと、故人の魂があの世から舞い戻り、(今何かと話題の)「守護霊」のような形で残された者を護るようなイメージを持たれるかもしれませんが、仏教は無常を説く教えですから永遠に不変であり続ける霊魂の存在は認めません。だから親鸞聖人が亡き方が仏となって還ってこられると仰るのは、固定的な何かが舞い戻るということではありません。ただ、亡き方が様々な手立てを通して私を仏法に導く、そういう「はたらき」があると仰せなのです。

今の私を支える亡き方の思い出

はたらき。そんな抽象的なことを言われたらますますイメージしにくいかもしれませんが、私は亡き方の「思い出」や「面影」ということの中にこのはたらきを感じることがあります。
いやいや、思い出というのはその人がまだ人間として生きていた過去の出来事で、アルバムに収められた写真のように動かず固定され、時間とともに色あせて古びていくものでしょう?それが還ってきた仏さまのはたらきだなんて、何を言ってるの?と訝しく思われるかもしれません。
確かに思い出それ自体は過去の出来事の記憶に過ぎません。だけどその過去の出来事が今を生きる私に影響を及ぼす。そういことはないでしょうか?
今は亡き懐かしい方があの時私に向けた何気ない一言、何気ない仕草。そういうものをふとした拍子に思い出し、クスッと笑わさせられて気が楽になる。グッと感じて心が励まされる。ハッとして気付かされる。ドキッとして反省する。ジワッときて心が揉み解される。そういう経験はありませんか?
あるいは同じ思い出が、年月を経て違った意味を帯びてくるということもあるでしょう。例えば若い頃は反発しか覚えなかった親の厳しい言葉が、その時の親と同じような歳立場になってみて、厳しさ込められていた願いに気づき、大切な思い出に変わるというような。
こうして考えてみると、亡き方の思い出とは単なる過去の出来事の記憶ではなく、私が忘れている間もいつも私に寄り添い、こうしている今もはたらきかけ続けているものだと感じられます。そして私の時々の状況や心持ちに応じて、勇気づけたり、示唆を与えたり、反省させたり、優しく包んだりして、私の命を支えてくれています。
このたらきを感じとった時私は、あゝこれは今は仏さまとなられた懐かしいあの方が、思い出を通して私に語りかけ導いてくださっているんだなと頂き、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏とお念仏申し上げるのです。

仏となる尊い命を生きる

こんな風に懐かしい方の思い出に仏さまのはたらきを感じてお念仏申していると、さらに大切なことに思いが及びます。
先にも書いた通り、亡き方の思い出はその方が生きている時に作られるもので、謂わば凡夫の所作です。でもその方がこの世を去られた後、その所作の中に仏さまのはたらきを感じられるようになるというならば、今を生きている私の、この瞬間の何気ない振る舞いもまた、誰かの心に思い出として留まり、私がこの世の命を終えた後、その人の命を支える仏のはたらきをすることになるかもしれません。
つまり私は仏となる命を今生きているということです。このことに思い及べば、毎日の一挙手一投足、一呼吸一呼吸にも意味があることが知らされ、これまで漫然と過ごしてきた自分が恥ずかしくなります。でもだからと言って立派に振る舞えと言いたいわけではありません。いえ、立派にしようとしてできるような私では元々ありません。ただ言えるのは、どこで何をしていても、どんな姿をしていても、私の命は尊いということです。
生きているといろんなことがあります。時には自分で自分を投げ出してしまいたくなるような、そんな思いを抱くこともあるかもしれません。でもたとえ私が私を見捨てても、決して見捨てないのが仏さまのはたらきです。
皆さんも身近な懐かしい方のことを考えてみてください。その思い出は立派でいい思い出ばかりではないはずです。失敗して落ち込んだり、腹を立てておられたこともあるでしょう。けれどもそういう一見ネガティブな思い出にもまた、私を導く仏さまのはたらきを感じ取ることができるはずです。
失意の底で人生の意味を見失ってしまうような時こそ、懐かしい方の在りし日を具に思い出し、お念仏してみてください。そうすれば私の命にも確かに意味があることを知らされ、生きる力が生まれてきます。そしてその思いを持って周りを見渡せば、周囲の人々もまた仏さまとなる方々であったと敬うこともできるでしょう。
「前に生まれん者は後を導き、後に生まれん者は前を訪え。」親鸞聖人が『教行信証』の結びに引かれた道綽禅師のお言葉です。先立たれた方の思い出に私を導く仏さまのはたらきを感じるとき、私もまた仏にならせていただくことが知らされ、自らと周りの人々を尊ぶことのできる世界が開かれるのです。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。