73回目の終戦記念日だった昨日、正午に鐘楼の梵鐘を撞きました。先の戦争への反省と、平和への想いを新たにするため、毎年この日に撞いています。
撞き終えて残響を聞きながら梵鐘を眺めていたら、鐘の正面向かって左側に何やら細かい文字が刻まれているのに気づきました。黒ずんで見にくいものの、目を凝らすと「寿命寺梵鐘縁起」と書かれていました。最後には「釋諦聴」と当山第18世の名が記されています。(このお寺に来て8年目になってようやくこんなことが刻まれていることに気づきました。お恥ずかしい…)
内容を見ると、そこには
- 最初の梵鐘は明治25年、篤信の門徒、田中善七さんの発心で作られたこと。
- 善七さんは貧窮の身でありながら、夜な夜な草履を編んで梵鐘の資金を作ったこと。
- そうしてようやく梵鐘が完成するも、鐘楼がなくしばらくは本堂に安置されていたこと。
- 明治28年にようやく鐘楼が完成し、吊り下げられたこと。
- 昭和元年の隣村に火事があり、警鐘のために乱打した際、破損したこと。
- 昭和4年、門徒の古川清六さんの寄進で修復されたこと。
…などなど、標題通りこの梵鐘を巡る歴史が綴られています。せっかく鐘ができたのにそれを吊るす鐘楼が数年間なかったなんて、ちょっと滑稽で笑ってしまうエピソードですが、それだけ雄琴村が貧しかったということかもしれません。そう思うと当たり前のように眺めていたこの鐘楼と梵鐘も、多くの先人の願いとご苦労があってこそある、大切で貴重なものだったと気付かされます。
けれどもこの後に続けて、「同(昭和)十七年、世界の禍乱に徴せられ妙音絶えて聞くを得ず」とありました。当時戦況の悪化に伴い兵器を作る金属が不足し、国はありとあらゆる金属を徴収しました。お寺の梵鐘も対象にされ、全国のお寺から梵鐘が消えたと伝え聞いています。仏法を広めるための梵鐘が彼方で人を殺す武器にされてしまったのです。どのお寺の梵鐘にも、寿命寺のそれと同様に人々の願いとご苦労の上にできたものであったはずです。でも戦争がそんな物語を全て、問答無用に吹き飛ばしてしまったのです。悲しい歴史です。
その後、戦争が終わって昭和26年、門徒の念願かなって改めて梵鐘が鋳造されたと記されています。それが今、撞いている梵鐘です。最後の「梵音の響流するところ、永へ(とこしえ)に念佛の聲絶えざるべし」の一文を噛みしめる73年目の終戦記念日でした。