永代経が次の日曜に迫りました。それに先駆けてこの前の日曜には、朝から婦人会と世話方ご夫婦の皆さんで本堂・客殿・境内の清掃をしていただきました。お陰様でスッキリ綺麗になり、清々しい気持ちで法要を迎えられます。本当にありがとうございました。
さて、その掃除の始まる前、庫裏で朝食を頂いていた時のことです。この春から小学校に通い始めた長男が、突然私に「お父ちゃんにとって一番大切なものは何?」と聞いて来ました。
普段から自分のことを一番に思って欲しい、認めて欲しいという「承認欲求」の強い子ですから、自分の名前を言って欲しいのだろうなと思ってそう答えようとしたら、先に長男が「あ!そうか。お父ちゃんは『なんまんだぶ』が一番大切なんやったな」と言いました。思いも寄らない言葉にはっとさせられました。
普段朝一緒にお参りする時など、折に触れ「『なんまんだぶ』が大事やで。大切にせなあかんで」と息子たちに言い聞かせています。いつか大きくなったら思い出して欲しいと願ってのことでしたが、裏返せば子どもに今分かるはずがないと決めつけていたとも言えます。けれども言われた子どもの方は素直にそれを受け止め、ちゃんと覚えてくれていたのです。
片や言い聞かせてきた私はと言うと「いちばん大切なものは何?」と聞かれても「なんまんだぶ」の「な」も頭に浮かばない有様でした。それどころか我が子の質問に「またいつもの承認欲求行動か…」と、煩わしささえ感じていたのです。申し訳ない気持ちで一杯になった私は「『なんまんだぶ』が一番大切って思ってないとあかんのやろけど、ほんまのこと言うとお父ちゃん、忘れてることの方が多いわ…」と正直に告白しました。
すると小学一年男児が優しく諭すように言うのです。「そうなんや。でもなぁお父ちゃん。お父ちゃんが忘れてても、阿弥陀さんは忘れてないんやで」。再び想定外の言葉にびっくりして「どこでそんなこと聞いたん!?」と尋ねると「門に貼ってあるやん」とのこと。慌てて門前に行くと掲示板にこんな言葉がありました。
「仏さまを忘れていても、仏さまは私を忘れない」
門前の揭語は滋賀組の仏教婦人会連盟から配布されたもので、月ごとに差し替えています。でもその仕事は坊守に任せ切っていたので、私自身は今どんな言葉が掲げられているかあまり気にしていなかったのです。お預かりしているお寺の掲示なのに勿体無く、申し訳ないことです。でも長男はちゃんとそれを見て気に留め、愚かな父に教えてくれたのです。
我が子とのやりとりを通して、正にこの掲示板の言葉そのまんまの仏様のはたらきを感じ取り、大切なことを忘れて過ごしている我が身を恥じるとともに、親子共々、仏様の大悲に包まれていることを知らされて、嬉しくなった日曜の朝でした。なんまんだぶ、なんまんだぶ。