真夏の葬儀と弔辞

IMG_0178今日(日付変わって昨日)は近所のホールで同じ地域にある浄土宗のお寺のお檀家さんの葬儀。宗派は違えど同じ地域のお寺ということでお招きいただき、出勤させていただきました。とは言え浄土宗と浄土真宗ではお葬式の儀式が全く異なるため、ほとんど何もできません。唯一お経は浄土真宗でも用いる阿弥陀経なので、そこはだけはここぞとばかりに一生懸命勤めさせて頂きました。
写真は今日着た夏用の色衣。真夏のこの時期の葬儀は珍しく、これを着る機会はめったにありませんが、汗だくになったのでこうして干しています。
儀式の中で雄琴の老人クラブ会長が弔辞を読まれました。現会長は寿命寺の門徒総代でもあるFさんです。
この老人クラブ会長による弔辞はこれまでも何度か聞かせいただいてきましたが、大体最後は「どうぞ御仏の元でご永眠ください。ご冥福を心よりお祈りいたします」というような言葉で締めくくられていたように思います。多分雛形となる文章が引き継がれているのだと察します。
ところで浄土真宗では、お念仏のご縁を頂いた方はこの世の命を終えられたら、阿弥陀如来の本願力によって即時に往生成仏し、直ちにこの娑婆世界に還って迷いの只中にいる私たちを救いとるべく働きかけてくださると説かれます。このことから考えれば、既に仏と成られている方の冥福を祈ることは無用ですし、永眠を願うのはせっかくの仏の働きを妨げようということになってしまいます。
もちろんこうした言葉は慣用句となっていますし、使う人にそんなつもりは毛頭ないことは分かっていますから、目くじらを立てるようなことではないかもしれません。でも、真宗の儀式として葬儀を行うなら、こうした言葉は相応しくないため、今度私が導師を勤めさせていただく葬儀の時には、会長さんに相談しなければな、と思っていました。
しかし、今日の弔辞は違っていました。冥福も永眠もなく、「今は仏様となって、これからも私たちの心の中に生き続けてくださいます。ただただお念仏申すのみです」と締めくくられました。
実は今月初め、老人クラブの恒例の物故者追悼法要があり、私が導師をさせていただきました。その時の法話でこんな話をしました。
「亡き方の面影や思い出は、それを思い返すたびに今生きている私の心を暖め、様々な示唆を与えてくれる。それらは古びて固まっていくものではなく、絶えず見えないところで私を支えようと働き続けている。こうしたことにも先人は還ってこられた仏さまのはたらきをみて、お念仏申されてきたのではないか。」
今日の弔辞を聞きながら、あの時の法話を受けてくださっているのかな、と嬉しい気持ちになりました。いや、全くもって勝手な想像かもしれません。でも、そうでなくてもありがたく、心に染みる弔辞でありました。
南無阿弥陀仏。

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