2014年、寿命寺は開基400年を迎えました

右余間にかけられている阿弥陀如来絵像の裏書に、回忌の年月日が記されている。
もう3日の夜ですが、みなさま改めまして、あけましておめでとうございます。
寿命寺は元日朝7時より元旦会を勤めました。毎年ながら、たくさんのお参り、非常に有難く思います。ありがとうございました。
さて、その元旦会でのご挨拶でも触れましたが、寿命寺は今年、開基400年を迎えました。日本に数多あるお寺に比べればそれ程古いわけではありません。でも諸行無常のこの世にあって、一つの施設・組織が400年もの間維持されてきたということは、やはり大変なことです。

それだけの間存在し続けてきたということは、寿命寺が雄琴の人たちにとって必要なものだったからでしょう。本堂に集い共に念仏を唱えることで地域の仲間と繋がる。またお浄土の世界を頂くことでご先祖と繋がる。地域のため、また一人ひとりの人生のため、そのような営みが最も大切なことであると、先人は大変なご苦労をしながらこのお寺を私たちに繋いでくださったのだと思います。では、この先もずっと寿命寺は人々に必要とされるお寺として存続していくことができるでしょうか。それを考える参考に、住職の職場の上司の住む地域の、去年の出来事をご紹介します。
9月の台風18号で地域のお寺が土砂崩れによって全壊しました。平安初期の建立とされる天台宗の古刹です。お寺は地域の20戸程の集落の人々によって護られてきましたが、再建するには億単位のお金が必要です。それでもずっとご先祖が受け継いできたお寺、何とか再建できないかと喧々囂々の議論を重ねたそうです。
しかし結論は再建を断念することとなりました。決め手は住民の一人が示した集落の人口シミュレーションでした。それによると子がいない、あるいは都会に出て帰って来ないなどの理由で跡取りのない家が増え、20年後には集落の戸数が現在の半分近くにまで減ってしまうということでした。今無理をして再建しても、20年後には支えきれなくなる。だからもう再建しないでおこうということになってしまったのです。
一見台風被害でお寺がなくなってしまった話のようですが違います。この地区は過疎化が進んでいて、20年後には「限界集落」に近い状況に陥るという現実を、台風によって目の当たりにさせられたということなのです。言うまでもなくお寺はそれを必要とし、支える人がいて初めて成り立ちます。地域社会が成立しなければお寺も存在できないのです。
では、この話を雄琴や寿命寺に当ててみたらどうでしょうか。雄琴は宅地開発が進んでいて一見過疎とは無縁のようです。しかしそうした家々の殆どは寿命寺と関わりがありません。お寺を古くから支えてきた門徒集落に限ってみれば跡取りがいらっしゃらない所も増えており、過疎とまでは行かなくとも、集落自体が縮小傾向にあります。これは取りも直さず、お寺を支える家や人が減っていくということです。
さらに門徒の皆さんの意識はどうでしょうか。社会全体の傾向として宗教に対する理解が低くなっている中、先人の意思を受け継ぎ、お寺を大切にしたいと考えてくださる方は果たしてどれ位いてくださるでしょうか。特に次の世代はお寺を支える家・人が減ります。それでも大切にしなければならないと認識してくださる方はどれくらいでしょうか。このようにして見てみると、寿命寺の将来は決して明るいものではないという気がしてきます。
でも寿命寺では数年前に住職が不在になった際、役員・総代を中心に住職候補探しに奔走されました。また婦人会が中心となって無住の寺をきれいに保たれてきました。これらのことは寿命寺の門徒の皆さんが、お寺を必要とし、永続を願っていることの何よりの証だったのではないでしょうか。そしてその結果迎え入れていただいた私たち夫婦には、その皆さんの願いに応えていく義務がある。寿命寺400年目の元旦にその思いを新たにさせていただきました。来年秋には開基400年の記念と宗祖の750回大遠忌、そして私どもの晋山式の法要を予定しています。それが寿命寺のこれからの進路の礎を築く機会となるよう、しっかりと進めてまいりたいと思います。
本年もどうぞよろしくお願いします。
★写真は右余間にかけられている阿弥陀如来絵像の裏書。開基の年月日や、堅田本福寺の雄琴惣道場としてのルーツが記されている。

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